PICTURE DIARY 0407WE2012


70年代の福生は横田基地の街として、アメリカの兵隊や軍人達の生活と共にあった。しかし、街の印象はそのままに、街で見かける米兵も徐々に減って、市内にたくさんあった米軍専用住宅、通称「ハウス」も軍人が住むことは少なくなり、ほとんどが基地内の集合住宅や立派な一戸建てに移転して、僕らのように美術系の大学に通ったり、音楽を志したりする、あるいは彫金や楽器などを作るクラフツマン達の間で異国、アメリカの風が感じられる情緒のある街として人気があった。実際には福生の冬に吹く風などはとても冷たくて、情緒どころではなかったのだが。僕の住むサンハイツは横田基地第2ゲートの近くにあって、隣人は米兵をご主人に持つ日本人女性「赤毛のアン」さんだった。元は福生の夜の街の人で、あまりに見事に髪を赤く染めていたので、僕らはそう呼んだ。裏手のハウスには同じ多摩美の油絵科の同窓生で、今では現代美術で有名になった知人が住んでいて、料金未払いで電気が止められたようなときには延長ケーブルで電気を分けてもらったりした。道をはさんだ向こう隣には、シルクスクリーン工房があり、そこでは多摩美の芸術祭恒例オールナイトコンサートのポスターなどを刷ってもらったりした。高校時代の友人で、バンド仲間だったKIDとシェアしてハウス暮らしをしていた。アンプやドラムスを持ち込んで練習スタジオにもしていたが、窓に古い毛布を吊るした程度の、防音とは言えないような状態で、大音量でバンドリハーサルをしていたが、いつでもアンさんはニコニコ笑っていてくれていた。誰が呼ぶのかパトロールカーが僕らのハウスの前に常駐して、苦情が入ると警官が静かにしてください、とパトカーを降りて注意に来るようになった。アメリカの独立記念日にはジェット機のアクロバット飛行があり、誰でも基地内の、限られてはいるが、あるエリアに入ることが出来たので、アメリカのチープでケバい、ばかでかい自家製ケーキやハンバーガーなどをいつも楽しみにしていた。今では福生も大分変わっただろう。アメリカの独立記念日。KIDはどこに消えたのか、あの頃のある日以来会っていない。

2 Comments

  1. かとびい より:

    前から気になっていたことを思い出しました。
    ミックさんはもしかしたら多摩美でユーミンと同級生…ではないですか?

  2. pine社長 より:

    初めまして
    ゴンチチファンの1人としてミック板谷さんの事を知ってはいたのですが
    まさか私と同じ時期に福生のサンハイツに住んでいらっしゃったとはビックリです。
    福生時代のミック板谷さんの記事を興味深く読まさせていただきました。
    私は最初はC-41に住んでいてその後サンハイツ管理事務所の裏手の大きめのハウスC-15,C-16を片方を住まいにもう片方を仕事場にしていました。
    そして仕事はシルクスクリーンによるTシャツプリントをやっていました。
    今も埼玉県日高市で続けています。
    なのでミック板谷さんがご存知のシルクスクリーン工房がすごく気になります。
    現在の福生はハウスが少なくなり建て売りばかりになってしまいましたが、そんな中なんとか福生を盛り上げていこうという若者たちがいます。
    その中で「限りなくアメリカに近い福生」という人気ブログ運営している若者から丁度今オリジナルTシャツのプリントを頼まれているところです。

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